: インド

日本代表 背番号なし

これまで何度か書いてきていますが、僕の生活圏では日本人は僕一人です。勤務先のオフィスはもちろん、仕事でお会いするお客さんもほぼインド人で、たまに欧米からの出張者がいらっしゃる程度。私生活でも、月に一回程度の日本人会の若手の皆さんとの交流会を除けば、インド人社会の中で毎日を過ごしています。 こうした環境で過ごしていると、自分は日本を代表している、という意識が自然と強くなります。もちろん日本代表と言っても、オリンピック選手やワールドカップ選手のそれと比べれば全然ちっぽけなものですが、それでも、僕が仕事や私生活で普段接する多くのインド人にとっては「僕イコール日本人なんだ」と意識させられるのです。彼らにとっては、僕の振る舞いは、僕という個人の振る舞いであると同時に、日本人の振る舞いでもあるんです。 例えば、仕事のプロジェクトで一緒になったメンバーと雑談をすると、よく「日本の XX はどうなんだ」「こういう時、日本人はどう考えるんだ」という質問を受けます。あるいは、僕の振る舞いを見て「日本人は丁寧だな」といった感想を持たれたり、「日本人はきっちり仕事をするから、お前もちゃんとこの仕事をしてくれると思う」といった期待を持たれたりするのです。 彼らは、僕という個人を見て、その延長線上に日本人を見ている。そう強く意識させられます。 今日までインドで生活していて、インド人が持っている日本そして日本人の印象は総じて大変良いものであると感じています。 ほとんどのインド人は日本に行ったことはありませんし、直接日本人と接する機会もほとんどありません。したがって、メディアの情報を通じて受ける印象がベースになっているのだと思いますが、日本や日本人に対して、ある種の尊敬の念といったものを抱いてもらっていると感じます。全てではないにしろ、日本の文化、精神、技術、サービスといった様々な日本の資産を評価してもらっていると感じます。 僕という個人を通じて日本が見られているのだとすれば、こうした日本のブランドや品位を損なうことがあってはならないと思っています。自分が至らないことも少なくありませんが、少なくとも意識の上では、その責任を果たせるように考え、発言し、行動しなくてはいけないと思っています。 僕の仕事のやり方、人との接し方、日本という国に対する視座のあり方から、街中でのちょっとした振る舞い方やゴミの捨て方まで、そういった言動の端々に、日本人としての意識や健全な誇りを持ちたいと思っています。 背番号はなくとも僕は日本代表なんだ、そう思いたいのです。 インドに来て以来、グローバル人材とは、という問いについて度々考えることがあります。その一つの答えとして、母国の国旗を背負えること、というのはあり得るのかなと思っています。 もちろん語学力を含めたスキル的な部分や、特定分野における専門性といった実践的な要素は当然重要だと思います。それでも、非常に曖昧ですが、自分の国の国旗を背負って他国の人間と付き合える意識とそれ相応の言動が取れることって、より本質的に大切な要素はないかなと思うんです。 そう考えると、僕はまだまだ未熟者ですが、地道に頑張っていきます。

あれから1年と半年

写真を整理していたら、ふと過去に撮った写真が目に入りました。 撮った日付は 2012年12月21日になっています。代官山の蔦屋書店で撮ったものですが、テーブルの上にはインド関係の書籍と、取得したばかりの観光用ビザが置かれています。 2012年の年末年始の休みを利用して、インドに一人旅に出かけました。インドに行くことの明確な目的があったわけではありませんが、一生のうちに一度は行っておきたいと思っていたのと、行くなら一人が良さそうだなとずっと考えていたことは確かで、それを行動に移すなら今だと思ったのは確かです。 数日後の25日に成田を出発し、デリーを経由して27日にガンジス川のあるバラナシへ。そこで数日を過ごし年末年始はタージマハルのあるアグラの近くで現地で知り合ったインド人たちと寝食を共に過ごしました。そして年明けにデリーに戻りさらにネパールに立ち寄った後、帰国しました。約10日間の一人旅でした。 その時が初めてのインドの旅となったわけですが、1年後の2013年末、再びインドの地を踏むことになるとは当時は全く思いもよらず。 偶然なのか必然なのか分かりませんけれど、あの時にインドを訪れていていなければ、きっとインドで仕事をしてみたいという気持ちも生まれなかったと思いますから、やはり必然なのかもしれません。そして、今インドで何とか生活が続けられるのも、1年半前に思い切って一人でインドに旅だった自分がいたからです。 そう考えると、人生はつくづく日々の積み重ねであって、今日考えたことや起こったことが、将来のどこかのタイミングで結びついていくんだなと思います。今の環境に感謝できることがあるとすれば、それは過去の自分がどこかでその種を蒔いたからですし、今日蒔く種は、将来の自分をつくっていくんですよね。 それと、やっぱり写真はいいなと思いました。 自分で撮った写真を見ると、その時の周りの様子や自分の心境が今でも鮮明に思い出せるような気がします。あの時、休日の蔦屋書店は座る場所を確保するのも大変なくらいに混んでいたのですが、その中で自分は、これからインドに一人旅に出るのだという高揚と緊張とに包まれていました。 これからも、拙いながらも自分の写真と自分の言葉で世界を切り取っていきたいと思います。

電話会議の多いインドの仕事

シンガポールからムンバイに昨晩帰国したばかりですが、今朝の早い便でデリーに出張しています。5時過ぎに家を出て、7時のフライトで約2時間。9時ころにデリーに到着しました。週末から3日連続でのフライトはさすがに疲れますね・・・。 日本で働いていた時に比べると、インドでは電話会議を使ってのコミュニケーションがかなり増えました。 日本の場合は多くの大企業の本社機能が東京または大阪に集中しているため、プロジェクトメンバー同士が直接会えるような距離を維持することは難しくありません。一方、インドの場合、面積が日本の10倍の国土において、例えばデリー(インドの北)、ムンバイ(西)、バンガロール(南)、チェンナイ(南)とインド各地に都市が分散しています(ちなみにこれらの都市を移動する場合は飛行機で2時間から3時間弱)。加えてそれら中枢都市の周辺にも規模の大きい衛星都市が点在し、飛行場からさらにクルマで数時間の移動が必要といったケースも珍しくありません。更に加えると、朝夕は交通渋滞が激しいためより一層の移動時間が必要です。 こうした地理的環境のため、一度プロジェクトメンバーが他の都市へ出張すると、しばらくは顔を合わせることができません。例えば以前、私がムンバイで働き、プロジェクトのマネジャーがチェンナイで働いていた時などは、1ヶ月に2回しか顔を合わせることはできませんでした。 したがって結果的に日常の連絡や相談で電話を用いることが多くなります。複数拠点と同時に接続可能な電話会議システムを用いてのチーム内での議論も日常的に起こります。 日本語であれば全く問題ないのですが、英語がノンネイティブの私にとって、こちらでの電話会議は今でもちょっとしたチャレンジです。対面であれば理解できる会話も、電話となるとどうしても理解力が下がってしまうのです。携帯越しでノイズ混じりになる音質の問題も大きいですが、ジェスチャーなどのノンバーバルコミュニケーションが使えないことも要因だと思っています。電話会議での理解不足は仕事のアウトプットに大きな影響を与えてしまうので、一言も聞き漏らすまいと、今でもまだ緊張しながら会議に望んでいるのが現状です。 インドに来て以来、コミュニケーションの精度については常々課題でした。半年前に比べればかなり精度も上がってきているとの実感はありますが、自分のベンチマークである日本語でのコミュニケーション精度と比較すると、まだまだ改善が必要だと思っています。日本語と同水準のレベルはかなりの修練が必要ですが、改善のためには地道に場数を踏んでいくことが一番の近道だと思いますので、電話会議の多い今の環境をうまく活用しながら努力を続けたいと思います。

傘を売る人

ムンバイは間もなく雨期(モンスーン)に入ろうとしています。まだ本格的な雨は降りだしていませんが、時折、夜などに短い時間ですが雨が降っています。12月末から5月までの間、ムンバイでは一度も雨を経験せずほぼ晴れの毎日でしたので、これからはどんな生活が待っているのだろうと最近はややドキドキしながら過ごしています。 そんなムンバイですが、先日街を歩いていたら初めて雨傘を売っている人を見つけました。今まで買い物に出かけても傘を売っている店を見たことがなかったので、ムンバイではどこで傘を買うのか不思議だったのですが、どうやら雨が降り出す頃になってはじめて傘の販売が始まるようです。正確には、雨が降り出して「から」ですかね。 この露天の雨傘売りを見て、実にインドらしいと感じてしまいました。 日本人の感覚としては、モンスーンが間もなく始まる前の例えば5月中には、念のため傘を準備しておきたい心理があると思います。しかし、そのタイミングではまだここでは傘は売られていません。実際に傘が売られるのは、本当に傘が必要になってから、つまり雨が一度降ってからなんですね。雨が降ったという事実をもって、実際に傘の販売が開始されるのです。 あえてシンプルに言えば、リスクを事前に想定して備えるのでなく、問題が起こってからそれに対応する、という考え方。あれが起きたらどうしよう、あれが無かったらどうしよう、なんて「たられば」の世界で事前にあれこれ心配するより、「問題が起きてから対処すればいいじゃないか」という潔さ。まさにインドという感じです。 果たして日本人である自分たちはどうなのでしょうね。国際的に見ると、日本人はリスクを想定し万が一に備えることに長けていると思います。その特長によって日本の製品やサービスの安全性や品質が高い次元で保たれているのでしょう。2011年の福島における原子力発電所の事例など、その安全神話が揺らぐこともありますが、総合的に見ればやはり日本のレベルは世界的には非常に高いことは間違いありません。そして、そうした資質は日本人として大切にすべきことです。 しかし一方で、インドのようなおおらかな精神の持ちようもまた人の生き方としては学ぶべき点が多いなあと思っています。実際に起きるかどうか分からない問題を心配して精神的に疲労するよりは、今確実に起こっていることに注力しそれに対処していく方が、気持ちの上では前向きになれそうですし、身軽に生きられそうな感じがします。もちろんそのためには、そうした「緩さ」を受け入れる社会の存在が前提になりますけれど。 何ごとバランスですが、異文化から学ぶべき点はやはり多いものです。

インドでカメラを持ち歩くのはまだ慣れない

未だにインドでカメラをぶら下げて街を歩くのは慣れていません。一眼レフなど持ちだそうものなら、最初は緊張して周りの視線を伺ってしまいます。 インドでカメラを持ち歩いているのは、観光スポットで外国人相手の写真撮影サービスを提供しているインド人(カメラは商売道具)か、あるいはその観光スポットを訪れている外国人や裕福なインド人くらいです。一度観光スポットを離れ、日常の生活圏に入ると、カメラを見かけることはほとんどありません。 従って私がカメラを持ち歩いていると、見た目の違いも手伝ってかなり目立ってしまうのです。自意識過剰かもしれませんが、外国人でカメラという格好は観光客としか見えないようで、路上の物売りや物乞いからの熱い視線を浴びることになってしまいます。もちろん他人の目など気にしては生きていけないインドですから、私もある程度は開き直って好きにさせてもらうのですが、やはり根っこは周りの目を気にする日本人。どうしても緊張してしまうのです。 ところでインドでは普段の生活圏では本格的なカメラを見かけないと書きましたが、インド人は写真を撮らないのかというとそんなことはありません。例えば街中でのパレードや何らかのイベント時には、スマートフォンのカメラで写真を撮るインド人達をよく見かけます(共和国記念日に開催されたパレードではボリウッドスターが登場し大変盛り上がっていました)。 日本では一昔前であればコンパクトカメラが活躍していたシーンだと思いますが、インドの場合、コンパクトカメラ市場の立ち上がりよりも先にスマートフォンが普及してしまったようです。日本においてもコンパクトカメラの市場はどんどんスマートフォンに取って代わられている現状を考えると、この先インドでコンパクトカメラが普及することは難しいだろうなと思います。 そう考えると、ノートパソコンに対するタブレット、インフラの必要なリアル書店に対する電子書籍など、新興国ならではの市場の立ち上がり方が想定されるものは他にも色々とあり得そうですね。 冒頭の写真は Black & Yellow Cab から。乗り心地はイマイチですが、手軽に使える日常の足として活躍してくれています。ムンバイでは定番のタクシーです。

それでも何か書き残しておきたい

前回の記事の更新が3月末でしたので、2ヶ月以上の空白期間を経て、こちらの記事を書いているところです。こちらでの仕事が忙しくなったのも理由の一つですが、加えて、このブログの立ち位置というかあり方について自分の中でうまく整理ができず、筆が止まってしまっていました。 この2ヶ月ほどの間に起こった事というと、インドでは複数のプロジェクトを経験し、週末を利用して日本の友人たちと東南アジアを中心としたいくつかの国を視察し、また久しぶりに短期間ながらも日本への一時帰国を果たしました。ブログの更新は止まっていたものの、充実した時間を過ごせていたように思います。 既に6月に入り海外生活も半年になろうとしています。まだ半年と言うべきか、もう半年と言うべきか難しいところですが、半年前の自分と今の自分とを比べ明らかに変わったことといえば、自分が日本人であることが強く意識されるようになった事ではないかと思います。インドという異国の地で生活し仕事をするため、その土地の人々の世界観や価値観をできるだけ理解しようと努めれば努めるほどに、日本人である自分が持っている世界観や価値観との違いが浮かび上がってきました。 例えば、「自分が発する言葉」に対する意味合いの違いといったものも、日本とここインドでは随分と違うものです。日本は自分の言葉に対する責任感が強い一方、それに引きづられる傾向がある(武士に二言はないの世界)。しかしインドでは状況が変われば自分の発言もリセットし新しい枠組みを構築できるような柔軟性を感じます。 こうした文化や社会における価値観や世界観の違いという視点を持って、インド以外の国を訪れてみると、やはり同じような気付きや発見があります。日本に生まれ育ってきた結果自分の体に染み込んでいる様々な「日本的なもの」が日本を離れることによって初めて明確に意識できるようになったのかもしれません。 加えて面白いのは、日本へ一時帰国をしてみても、以前は当たり前のものとして気付かなかった「日本的なもの」の存在をあちこちに感じることです。海外で暮らすという経験が、それらに対する感度を上げたのではないかと思っています。 まとまりの話になりましたが、冒頭に書いたこのブログのあり方については、自分でもまだどういう方向性に持って行きたいのかは明確に分かっていません。ただしブログのタイトル Phoword に “Moving forward through photos and words” という意味を込めた様に、写真と言葉で世界を切り拓くという軸はブラさず、自分の思考を残しておきたいと思っています。

New Delhi に出張

先々週から先週末まで、約2週間、New Delhi に出張していました。Mumbai からは飛行機で約2時間です。インド北部に位置する New Delhi はやや涼しくまた小雨が降るなど、Mumbai とはまた違った気候で、インドという国の広さを感じさせました。 New Delhi といっても、出張していたのは正確には New Delhi 中心部から南西に30キロほどのところにある Gurgaon (グルガオン)という街。 実際に、インドに拠点を置く外資系企業の多くは New Delhi をインド本社所在地として選択しますが、ここ Gurgaon に拠点を置くケースが大半の様です。Wikipedia によるとフォーチュン 500 企業のうち半数が Gurgaon に本社を設置とのこと。 [Wikipedia] 歴史的背景はきちんと調べていませんが、New Delhi 中心部は主にインド府関ならびに各国政府の関係機関で一等地が専有されており、歴史のある街なので再開発するということも難しく、New Delhi に近い Gurgaon が新たな経済活動の中心として発展したのではないかと思います。 特に Gurgaon にある DLF Cyber City という商業地区には、私の会社のオフィスも含め、多くの外資系企業が集結している様でした。外から会社のロゴを見るだけでもグローバル企業の名前があちこちに見られ、ここがインドの経済活動の最大拠点の一つであることが伺われます。また、企業のオフィスだけでなくレストラン等の商業施設も併設されており、このエリアだけで相当な経済活動が行われているのではないかと思われます。 しかしながら、Gurgaon に限った話ではありませんが、やはり朝の交通渋滞はかなりのレベルでした。例えば私の滞在しているホテルからオフィスまでは空いている時間であれば、タクシーで 10-15分程度の距離なのですが、朝9時から10時台となるとそれが 30分から45分という時間になってしまいます。 インドでは New Delhi、Gurgaon、Mumbai といった大都市においても、幹線道路の数がまだ十分ではない様で、通勤帰宅時は大量のクルマがその道路に集結します。加えて幹線道路の所々に工事中の箇所や他の幹線道路との合流地点など、抜けの悪い場所が存在するため、朝夕は一気に流れが悪くなってしまう様なのです。実際、私が今回一緒に仕事をしたインド人の上司は New Delhi から毎朝タクシーで来ているようですが、長い時は2時間近くかかるとのことでした。 さて、New Delhi (Gurgaon) での仕事は短期間ではあったものの、なかなかタフで、連日ホテルで深夜まで仕事が続いたのですが、プロジェクトとしてはインドという国をマクロな視点で捉えることができる良い機会となりました。これについての学びはまた日を改めてご紹介できればと思います。

インドに日本人はどれくらい住んでいるのか

ムンバイに住んでいると普段の生活圏で日本人の方をお見かけするのは非常に稀で、こちらの日本人会関連のイベントに足を運んで、ようやく日本人の方とお会いできるというのが現状です。そこで実際にインドにどれくらいの邦人が住んでいるのか気になり外務省の統計を参照してみました。良い機会ですのでインド以外の状況も少し見ています。 以下は海外全体における海外在留邦人数の推移となります(海外在留邦人は、永住者を含めた3ヶ月以上の長期滞在者で、短期出張者は含まれません)。 2012年で120万人を超える方が海外に住んでいますので、国民100人に1人が海外に住んでいるという計算。しかも日本人の総人口は既に減少傾向に入っている中、海外在留邦人は過去5年間で13万人増加しています。国内から海外へという傾向はデータとしても明らかですね。 国別に見てみると、トップ5はアメリカ、中国、オーストラリア、イギリス、カナダ。この5カ国で合計77万人と、全体120万人の6割近くを占めています。 インドはというと7,000人で国別では23位。全体の1%にも満たない割合でした。加えて、私が親しくしている友人たちが住む国であるシンガポール(11位)、マレーシア(12位)、ベトナム(19位)、ミャンマー(59位)も比較しています。 国民の人口ベースではインドは中国に次ぐ世界第2位の国ですが、日本にとってはまだまだ圧倒的に「遠い」国であることが分かります。 一方で、これらの国の邦人数の2010年から2012年までの総数の増加率を比較してみたものが以下となります。 マレーシアはこの2年間で2倍、ベトナムは1.3倍、インドは1.6倍、ミャンマーは1.2倍と、少なくとも増加率という点では上位5カ国に比べ勢いを感じますね(インドは2010年時点で4,500人だったのが2012年で7,000人)。絶対数ベースではまだまだですが、日本にとっての重点国の多様化、シフトを感じるデータです。 ちなみに同資料によると、2011年から2012年での総数増加率の上位5カ国は、マレーシア、インド、カンボジア、ベトナム、フランスとのことでした。フランスが入っているのは意外というか違和感がありますが、単年なのでたまたまランクインしたのかもしれません。 さて、インド国内での日本人の分布はというと以下の様になります。データはそれぞれの都市にある大使館、総領事館が担当する「地域別」での統計になりますが、住居者は各都市に集中しているはずなので、ほぼイコール各都市に住む邦人数と見てよいかと。 圧倒的にニューデリーに集中しており、ムンバイはまだ1,000人程度です。ムンバイでは日本食材の入手がほぼ絶望的なのですが、この規模を考えれば仕方のない事かと思います。 さて、ここで冒頭の「日本人に会わない」というところに戻ると、ムンバイの人口は 1,200万人と言われていますので単純に計算すると日本人は1万人に1人もいないということになります。となると、やはり偶然に出会うというのはなかなか難しそうですね。

生き方を定められた人々は何を見るのか

実際の事実関係はまだ未確認ですが、おそらくインドで生まれた大半の人々は生まれた瞬間に自身の生き方の多くが決まってしまっているのではないかと思われます。 カースト制度そのものが廃止されたわけではありませんし、それによる差別が法律で禁止されたとはいえ、企業に就職する際には何らかの形で自身の所属するカーストの影響を強く受けると言われています。 カーストの縛りを受けないためには、例えば IT 産業などカーストで規定されない新しい産業の職に就くという手段があると聞きますが、そのためには一定の専門知識、スキルを身につけなければ難しい話であるとすれば、そもそもそういったチャンスを掴める人は、インド人のなかでどれだけいるのだろうと思うのです。 多くの人は生まれた土地で、血筋が決めた仕事に就き、一生の仕事として続けていくのではないかと思っています。 先日、ムンバイに友人の上田さんがお越しくださった時、ぜひご案内したかった場所がありました。Mahalaxmi Dhobi Ghat と呼ばれる大洗濯場です。ここはそういったインド人の生き方を強く印象づけてくれる場所であると思ったからです。 Dhobi とはこちらでは washerman つまり洗濯屋さんのこと。Ghat とは川沿いに設置された階段上の場所を指します。よって Dhobi Ghat とは本来は川沿いで洗濯を仕事としていた人々を指す言葉なのでしょう。 Mahalaxmi Dhobi Ghat には川が流れているというわけではないのですが、言葉としてはそういった背景になります。 ここではムンバイ中から集めた衣類を一斉に洗濯し、乾燥し、アイロンをかけ、依頼元に配達するという一連の洗濯に関わる仕事が、膨大な数の人によって行われています。 案内してくれたインド人によれば、その数は全体にして1万人と言っていました。数を誇張する傾向のある彼らですので鵜呑みにはできませんが、少なくとも数千という単位の人がこの場所で洗濯の仕事に携わっているのではないかと思います。 広大なエリアの中には、昔ながらの手作業による洗濯を行う場所だけでなく、大型の洗濯機も設置されていました。奥にはアイロンをかける場所も。平行して住居と思われる建物も点在しており、ここに住みながら洗濯という仕事をしているのだと分かります。 朝起きた瞬間から寝るまで、この世界の中で生きている。 日本で生まれた僕は、子供の時から将来は何になりたいのかという質問を受けて育ち、大学に進学する時は何を学びたいのかと問われ、就職する時はどんな仕事がしたいのかと問われてきました。 仕事だけでなく、住む場所や付き合いたい人たち、といったことにも一定の自由が与えられてきました。そして今は、ムンバイに住み働くという自由を享受しています。 一方で、この Mahalaxmi Dhobi Ghat で生まれ育った彼らは何を見て生きているのでしょうか。 彼らには彼らの世界観があり、価値観が存在するわけで、僕のそれとの単純な比較はできません。お互いの世界を知らない以上、どちらが幸せかどうかという議論もできません。自由には自由なりの難しさや辛さもあると思いますし、制約された環境で見出すことのできる安心感もあるだろうと思います。 よって、ここで何らかの結論を出すということはできません。しかし、僕が生きてきた世界観とのあまりの違いを前にして、彼らの目に映っている世界とはどのようなものなのかと、ただ強い関心を覚えています。 p.s. 写真に映っているおじさんですが、写真を撮らせて頂いた後のニコリと笑った表情が印象的でした。

混沌の中にある秩序

早いものでインド・ムンバイでの生活も一月が経過。 この週末には嬉しい出来事が。わざわざシンガポール在住の友人である上田さんが訪れてくれました。さすがのフットワークの軽さで、金曜日午前中にチケットを購入し、翌日の土曜日にムンバイ入りというスピード感。僕にとっては初めてのインドへの来客となりました。どうもありがとうございました。 たった土曜日1日という限られた時間でいかにインドを感じてもらえるか考えコースを検討してみましたが、一定の面白い経験はご提供できた様で一安心。お陰さまで、インドを感じるムンバイ観光のモデルコースのイメージを持つことも出来ました。 さて、たったの一ヶ月、しかも最大規模の経済都市ムンバイという限定された地での経験という前提ではあるものの、この国では混沌と秩序とが絶妙に調和しているような印象を受けています。 まず、初めにインドの地を踏まれる多くの方は、この国の混沌とした有り様に強い刺激を受けるのではないでしょうか。 空港を出た瞬間のタクシードライバー達の強烈な眼差しと客引き。ホテルに向かう道程における渋滞とけたたましいクラクション。その中を縫うように横断していく歩行者たち。観光地に出向けば、厚かましい物売りや物乞いする女性や子供がいる一方で、デジタル一眼レフカメラを首に下げ記念写真を撮る裕福層。街中に多く存在するスラム街のすぐ近くに建つ高層の高級マンション。 ここではあらゆる人々、生活、価値観が極端な振れ幅を持って混同しています。そしてこの極端さに、おそらく多くの日本人は揺さぶられ、ある人はインドから遠ざかり、ある人はインドに惹かれていくのだと思うのです。 しかし最近になって、こうした混沌さの中にも、一定の秩序があるように見えてきました。混沌でありながらも分裂、崩壊せずに、その混沌さを保つための秩序と言えばよいでしょうか。 例えば、先日私はムンバイで開かれた SCMM 2014 というマラソン大会のハーフマラソンの部に参加しました。 数キロごとに設置されたエイドステーションでは小さいペットボトル入りのミネラルウォーターが提供されるのですが、ちゃんとしたゴミ箱がないために、ランナーであるインド人たちはそのペットボトルを周りにポイポイと投げ捨てていきます。結果、辺り一面はペットボトルが散乱。 しかし同時に、そのすぐ近くでペットボトルを回収するインド人たちを見かけました。どう見てもこのマラソン大会のボランティアではありません。恐らくはゴミ回収を生業としているであろう人々。こうして拾ったポットボトルを明日の糧としているのだと思います。ゴミ箱が設置されないことによって、彼らの生活が保証されているのでしょう。 これはあくまでもひとつの例に過ぎませんが、こうしてインドでは多種多様な人生が間接的、直接的に関わり合い相互依存しながら大きな社会を動かしているように思います。一見、混沌としていながらも、混沌さを構成する無数の要素が一定の秩序を持って、混沌さを支えているような感じです。 10億人を超える人口、様々な民族、宗教、言語が混在するこの国を知るには、混沌の中にある秩序を見出すことが大切なのかもしれないと思いました。