: インド

盟友ムンバイへ来たり(エンペラーの会) #7 – Colaba 散策

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これは「エンペラーの会インド編第6話」からの続きである。

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無事にマッチが合流し、エンペラー全員がムンバイに参集した。

時刻は19時を回っており、そろそろディナーの時間になっていた。しかしエレファンタ島の観光を終え遅いランチを食べた羅王とザッキーニはまだそこまで空腹ではないと言う。そこで僕たちは少し Colaba 地区を散策してから、ディナーへ向かうことにした。

 

盟友ムンバイへ来たり(エンペラーの会) #6 – エンペラー集合

これは「エンペラーの会インド編第5話」からの続きである。 ––––––––– 14:36、Facebook メッセンジャーに頭の回転以上に口の回転が速い男、マッチ帝から連絡が入った。 「いま到着! これから荷物ゲットしてホテルにむかうよ!」 どうやらインドに到着して早々、iPhone の国際パケット通信を駆使して連絡を入れてきたようだ。さすがコミュニケーション最速の男だけある。ムンバイ国際空港で「一時間ほどまごついていた」(羅王分析による)ザッキーニとの格の違いを見せつけてきた。 15:16 には「いまタクシーのったっす!」との連絡。 空港について 40 分後にタクシー乗車とは極めて順調である。インド初上陸ながら順調にハードルを越えている。ベンチャー企業経営層の一角として荒波に揉まれながらも成果を出してきた実力をいかんなく発揮している。今の時間に空港から移動を開始したとなれば、Colaba まで南下してホテルに着くのは 16:30 前後だろう。 その時、羅王とザッキーニは、エレファンタ島での観光を終え、遅めのランチをクマールと一緒に食べ終わり一旦ホテルに戻った頃であった。この頃、羅王は定例の OPP 活動(いわゆるアウトプット系の生理現象である)によりホテルのトイレに籠り、ザッキーニはトイレに籠った羅王を待っている状況であった。マッチがホテルに到着する頃には羅王の OPP 活動も下火になっていると思われる。僕はまだ仕事があるので、マッチの出迎えは羅王とザッキーニに任せる事にした。 ––––––––– その後しばらく情報が途絶えてしまったため、彼らに何が起こったのか僕はよく分かっていない。これは夕方以降に皆と再会した時に聞いた話である。 どうやらマッチを待っていた羅王とザッキーニはあろうことか同時にお昼寝タイムに突入してしまった様である。マッチが連絡を取ろうにも全く連絡が取れなかったと聞いている。エレファンタ島の観光を終えランチをたっぷり食べた二人は、エンペラーとしての日頃の習慣なのか、後はよろしくとばかりに、同時に意識を失ってしまった様なのだ。 ところが正確な場所を二人から聞き出せなかったマッチは無事にホテルに到着している。もちろんタクシードライバーが近くに連れて行ってくれたのだろうと思う。しかし一帯は似たようなホテルが並んでおりすぐには分かりづらい。そして頼りの羅王とザッキーニは無意識状態である。話を聞くに、どうやら絶妙なタイミングで外を歩くマッチをクマールが見つけてくれたようなのだ。 もちろん僕はクマールにマッチの写真は見せた事がないから、クマールが知っているのはもう一人日本人が来るという情報だけだ。Colaba 地区は外国人比率が高く日本人、韓国人、中国人が歩いていることも少なくないのだが、羅王、ザッキーニがマッチを放置し熟睡する一方で、クマールが鋭い嗅覚を効かせてマッチを発見してくれたようなのだ。ありがとうクマール。 無事にマッチも合流し、今回のメンバー全員が揃った。僕も仕事を切り上げ 19:00 前に彼らと合流するために Taj Mahal Hotel と呼ばれるムンバイでは非常に有名は5つ星ホテルへ向かった。羅王、ザッキーニ、マッチそしてクマールたちがそこでお茶をしていのだ(なお、Taj Mahal とあるが、アグラにある世界遺産タージマハルとは直接の関係はない。Taj とは “crown” そして Mahal とは “palace” の意味である)。 ところが久しぶりのマッチとの再会を楽しみに Taj Mahal Hotel のカフェテリアへ向かって見たものは、僕の嫉妬心をかき立てる光景であった。なんと出会って 1,2時間程度のはずのクマールとマッチが既に意気投合しているのだ。 これまで何度か書いてきた様に、僕とクマールとはそれなりに良好な関係を続けさせてもらってきた。今年の1月、散歩中に出会って以来、月に一回ほどの頻度で彼のカレーをご馳走になり、また、彼のご家族、ご親戚の皆さんにも会わせてもらっている。その時は一緒にダンスまでした仲である。つまり半年以上の時間をかけ、彼との関係をじっくりと構築してきたのだ。 ところがマッチはなぜか一瞬にしてクマールとのラポールを築いてしまっていた。 クマールとマッチの間で何が起こったのかは分からないが、出会い頭からマッチが怒涛のようにスベり技術をいかんなく発揮して圧倒的なアウトプットを続けた事は想像に難くない。インド人は話し好きであり、意思を明確に示す事に価値があると考える人々だ。その内容に納得できるかどうか、あるいは理解できるかどうかは次のステージで、まずはとにかくアウトプットしなければ始まらないのだ。量があり、その次に質がある。 その点、マッチは既に第一ステージ、すなわち量の部分は軽々とクリアしていたのだろう。クリアしていたというよりインド人のそれすらを凌駕していたのかもしれない。マッチも決して英語が流暢ではないが、日本語で話していても基本的にはスベり傾向が強く齟齬はつきものである。つまり日本語だろうと英語だろうと、結果的には大きく変わらないのだ。 考えてみてほしい。もし仮に自分が初めてインドを訪れたとしたらどうなるか。 辺り一面、こちらに熱い視線を送るインド人に囲まれ、蒸す様な暑さの中、インド独特の訛りのある英語であちこちから声をかけられるのだ。日本人であれば既にこの段階で弱気になってしまい口数少なくなるのも無理はない。まさにザッキーニがこうした症状にやられた典型例である。そしてクマールも当然これまで日本人たちを相手にしてきているから、そうした日本人のステレオタイプを持っているに違いないのだ。 ここにきて頭の回転以上に口の回転が速い男マッチの登場である。夜中に成田を発ちドバイ経由でインド入りし疲労しているにも関わらず、臆することなく圧倒的なアウトプットをかましてきたのだと思われる。何を言っているかは問題ではない。むしろ何を言っているかあまり分からない。しかしその圧倒的なアウトプット量に、これまでにクマールが接してきた日本人像を塗り替えてしまうインパクトを持っていたはずだ。 僕はマッチの驚異的なコミュ力、それを支えるスベり技術に心底感銘を受けながら、彼のクマールとのラポールに嫉妬していた。 ––––––––– Taj Mahal Hotel でのティータイムも一段落し、19:30 を回った。遅めのランチを取った羅王、ザッキーニはまだお腹が空かないと言っているが、ムンバイに着いてまだ食事をしていないマッチはお腹が空いたし、僕も空いてきた。ということで羅王、ザッキーニのお腹が空くように、少し外を散歩してからディナーに行くことにした。 この後、再びマッチはその恐るべきポテンシャルを見せつける事になるのだが、それは次回に。 次の写真は Taj Mahal Hotel にて。今回インド訪問のエンペラー全員集合である。ここでもザッキーニのファッションがインド仕様でないことがお分かり頂けると思う。

盟友ムンバイへ来たり(エンペラーの会) #5 – マッチ

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これは「エンペラーの会インド編第4話」からの続きである。写真は今回の記事とは無関係だが以前 Colaba Causeway にて撮ったもの。

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金曜日の朝を迎えた。本来は羅王とザッキーニに付き添いたかったのだが、僕は仕事が入ってしまっていた。事前に分かっていたことなので、今日一日はクマールに観光案内をお願いしていた。もっともそれはクマールの本職であるから僕が案内するよりも羅王とザッキーニにとってプラスの面も大きいはずだ。

盟友ムンバイへ来たり(エンペラーの会) #4 – 羅王、ザッキーニと共にホテルへ

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これは「エンペラーの会インド編第3話」からの続きである。

 

無事に羅王そしてザッキーニと合流し Colaba Causeway のホテルへ到着した。ここ Colaba Causeway はムンバイの南端に位置する繁華街で外国人観光客の割合がおそらくムンバイで最も高いエリアである。質の良いホテル、レストランが揃っており、今回の旅の拠点としては最適だ。

 

盟友ムンバイへ来たり(エンペラーの会) #3 – ザッキーニ、インド着

これは「エンペラーの会インド編第2話」からの続きである。

21:00 を回った。第2の男がまもなく到着予定だ。彼は成田からシンガポール経由でムンバイへ向かっている。シンガポールのチャンギ国際空港経由となると片道 15 時間前後の道のりだ。僕も以前この経路で日本との往復をしたことがある。夕方に日本を出て深夜にシンガポールに到着、ムンバイには明け方に着くという便だった。これだけの時間をひたすら移動に費やすというのはなかなか大変であり、まさにこんな感じになる(チャンギ国際空港にて)。

 

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盟友ムンバイへ来たり(エンペラーの会) #2 – 羅王インド着

9月18日木曜日、夕方5時。まだ若干の仕事を残しムンバイ国際空港へタクシーを走らせた。ムンバイはまもなくラッシュアワーの時間帯に突入。早めに動いておく必要がった。今の時間帯は、有料道路の Sea Link を経由しても空港へは1時間程度かかる。Black & Yellow Cab と呼ばれるローカルタクシーを捕まえたが、あいにく空港へ向かう途中で土砂降りの雨が降ってきた。Black & Yellow Cab は Non-AC cab (エアコンなし)との扱いになるため、基本的に窓を開けっ放しにして走る。雨が降ると窓を占めるのだが、閉めきってしまうとフロントガラスが曇るので、やはり窓は少し開いている。

ところが Non-AC といっても最近はエアコンが装備されているクルマも多い。したがって AC cab になることも可能である。この日、ドライバーは合計 700 ルピー払えばエアコンをつけてやるがどうだと提案してきた。しかし Yellow & Black Cab にしてはちょっと割高設定なので僕は安くしろと跳ね返した。しかし向こうも強気で値段を下げない。何度かの押し問答があったが、結局お互い折れることはなく、そのまま Non-AC cab として空港へ向かった。窓から雨が吹き込む中、僕はパソコンを開き仕事を継続し、ドライバーは僕以上に雨に濡れながら運転を続けた。彼が心の中で何を思っていたのかはわからない。

盟友ムンバイへ来たり(エンペラーの会) #1 – 序章

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先週の木曜日夜から日曜日にかけ、日本から友人がムンバイに遊びに来てくれました。より正確に言えば、遊びに来てくれたというよりも、僕が日本にいた時から参加していたある密会(エンペラーの会)が今回インドを舞台に開催され、それに参加するために数名のメンバーが日本からインドに来訪してくれたというのが正確な表現です。

盟友ムンバイへ

日本から久しぶりのお客さまです。明日から数日間、日本から3人の盟友、戦友あるいは悪友がムンバイに来てくれます。それぞれ忙しい身だというのに有り難いことです。そしてますます有り難いことに、3人ともバラバラの飛行機でムンバイに到着。ロジが大変です笑。 既に彼らにはお伝え済みですが、ムンバイは観光スポットはあまりありません。インドだからタージマハルだろ、となってもタージマハルのあるアグラまで移動するのは半日から1日がかり。ムンバイからすぐに行ける観光場所としては、フェリーで行くエレファンタ島くらい。 それでも、ムンバイに来てもらえれば、見てもらえるものがあります。インド人の生き方、暮らし方。これは多分、日本のパッケージツアーでは得られないものです。ムンバイで住む僕が一緒にいるからこそ、見せられるものだと思っています。きっと何か持ち帰ってもらえると思います。 >エンペラーの皆さん、どうぞお楽しみに!

Sula Vineyards にてワインテイスティング

週末、少し足を伸ばしてインドのワイナリーへ行ってきました。その前日に Wasabi にご一緒頂いた友人からのお誘いです。 インド産のワインの存在はこちらに来るまで知らなかったのですが、レストランのメニューで度々目にするので、何度かグラスで飲んだことがあります。失礼な言い方ですが、インドの気候でワインが作れるとは思わなかったので、飲んでみて結構ちゃんと作るなあと思っていました。 今回訪れたワイナリーは Sula Vineyards というところ。それはムンバイから 170km ほど北東にある Nashik という街のすぐ近くにあります。運転手付きのタクシーを貸し切り、朝7時前にムンバイを出発。途中多少の寄り道をしながら現地についたのが11時半ころでした。モンスーンの時期とあって、ムンバイから少し郊外に出ると緑が広がる場所も多く、目の保養になりました。 Sula Vineyards の創業者 Rajeev Samant はスタンフォード大学を卒業し Oracle に務めた後、インドに帰国後。農業を営む実家の土地がワインづくりに適していると気付き、1999年にワイナリーを立ち上げたとのことです。まだ15年前の話ですが、今では日本にも輸出されている程のブランドに成長しています。すごい。 このワイナリーでは1時間おきにツアーを実施しており、ワイン工場の見学と実際にその工場で生産されたワインのテイスティングが可能です。ワイン4杯までのテイスティングが 150ルピー、6杯までのテイスティングが 250ルピーと2つのオプションがありましたが、もちろん6杯で参加です笑(といってもテイスティングなのでグラスの底に軽く注がれる程度です)。 ワインのテイスティングなるものに参加したのは実は今回が初めてですが、複数のワインを飲ませてもらうと確かに色々な違いの発見があって面白いですね。日本に帰ったらもう少し勉強してみたくなりました(いつもワインを頼むときは品種もブランドも分からずおまかせで済ましてしまっていたので・・・)。 夕方に現地を出発。ムンバイに戻ったのが夜の8時頃です。社会勉強にもなりましたし、良い気分転換にもなりました。お誘い下さった S さん、どうもありがとうございました! 参考リンク: Sula Vineyards 写真 今回の写真はすべて Fujifilm X-T1 にて撮影。レンズは FUJINON XF23mm と XF35mm です。現在ドイツでは Photokina 2014 が開催中。どんなカメラが登場するのか、楽しみですね。

インドにおけるモノづくりという話

モディ首相の来日に合わせ、連日、日印関係の強化に関する話題でニュースが盛り上がっています。その中で9月3日の日経朝刊に「インドでモノづくりを」という記事が掲載されていました。以下、同記事からの引用です。 モディ氏は約2000人の聴衆を前に「インドには低コストで質の高い労働力がある」と指摘、「メーク・イン・インディア(インドでものづくりを)」という政権が掲げるキーワードを繰り返した。特に中堅・中小企業の進出に期待を寄せ、「日本の中小企業は、インドの大企業と同程度の力を持っている」と述べた。 これを受けて、インドにおける日本流の「モノづくり」とは果たして可能なのだろうかと考えてみました。以下、あくまでも個人的な感覚や経験に基づく主観ですので、ご留意を。 そもそも日本流の「モノづくり」とは何なのでしょうか。 これに関しては既に多くの考察がなされているので、素人に近い僕が見解を述べられる立場ではないのですが、それを可能たらしめている重要な要素の一つとして、製造現場に蓄積された高度なスキルやノウハウが挙げられると思います。なかでも形式知化が困難な、現場に暗黙知として蓄積されたスキルやノウハウが非常に重要な役割を担っているのだと認識しています。 もちろん他にも、日本のモノづくりたらしめる要素は存在するはずですが、ここでは話を簡単にするために、そうした暗黙知的なスキルやノウハウの存在が日本のモノづくりの要件の一つであるとして、それに絞って話を進めたいと思います。 さて、こうした暗黙知的なスキルやノウハウは、その定義により、属人的な性質を持つはずです。属人的で暗黙知である以上、現場で働く方々が、中長期的な時間軸で習得し、また継承していくものだと思います。言い方を変えれば、その現場で働く方々が、中長期的な時間軸で、その現場に留まり続けることが前提条件になっているとも言えます。 ここで、インドにおける日本流のモノづくりについて考えてみると、その最大の課題は、雇用したインド人に中長期的な時間軸で現場に留まってもらい、暗黙知的なスキルやノウハウを十分に吸収し活用してもらうこと、ではないかと思っています。 私は他の新興国の事例を知らないのですが、ことインドの中間層においては離職率がどうやらとても高いのです。あくまでも僕の感覚によるものですが、ちゃんとデータを調べても、やはり高いのではと推測します。 例えば今インドで僕が住んでいるアパートは、常時交代で、受付にスタッフが在席しているのですが、このスタッフの皆さんの顔ぶれが毎月入れ替わるのです。おそらく全員で5から6名程度のスタッフが勤務しているはずですが、その顔ぶれがどんどん入れ替わる。本当にコロコロと仕事を変えてしまうのです。顔見知りになったなと思ったら、いつの間にかいなくなってまた新しいスタッフが常駐している。日本のアルバイトのスタッフの方がまだ長くいるんじゃないかと思うくらいの入れ替わり方です。 こうした事例はこちらに住んでいる他の日本人からもよく聞きますので、おそらくインド人の中間労働者層の就業観として、全般的にそうなのではと推測します(もちろん一定層以上のビジネスパーソンになるとまた話は別です)。つまり、少しでも今よりも条件が良い仕事が見つかればすぐに移ってしまう、あるいは今の仕事に少しでも不満があれば辞めてしまう、そんな印象を受けています。そしてこれはインドの製造現場でも同じような状況ではないかと想像します。 従って、日本企業が日本流のモノづくりをインドに移管しようとした時、大きな壁となってくるのがこの離職率の高さではないだろうかと思っています。せっかくスキルやノウハウを教育しても、それが身につく前に仕事を辞めてしまうリスクが非常に高いのではと思うのです。当然、それを防ぐために、他企業よりも給与面や待遇面を手厚くすることで、ある程度の離職は避けられると思います。しかし、良くも悪くも個人主義の強いインドの方々を見ているとそう話は単純ではないだろうなと、あくまで直感的にですが、感じています。 ただし、これまでも日本企業は中国や東南アジアに、日本流のモノづくりのあり方を広めてきた実績はあるわけですから、うまいやり方はあるのかもしれません。それらについては僕は具体的なストーリーを知っているわけではないのでコメントできませんが、これまでの他国への製造移管のノウハウを結集すれば、インドへの移管もできるのかもしれません。 そしてもちろんのことながら、これだけ文化が違うので、こうしたハードルが存在するのは当たり前のこと。その前提で、インドにおける製造の意味やあり方について吟味し、試行錯誤しながら、手探りでインドにおける日本のモノづくりを進めていけば良いのだと思います。 インドで製造するということは、コスト競争力やインド市場の獲得以上の意味が存在すると思います。具体的には、中東やアフリカといった更に西側の市場へのアクセスです。ムンバイに住んで実感していますが、こうした西側への拡がりが具体的にイメージできるのがインド(特にムンバイなどの西側の都市)なのです。そうした中長期的な視野で、インドをどう活用するのか、という部分が今後の面白いところかなと思います。