: X-T1
これは「エンペラーの会インド編第4話」からの続きである。写真は今回の記事とは無関係だが以前 Colaba Causeway にて撮ったもの。
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金曜日の朝を迎えた。本来は羅王とザッキーニに付き添いたかったのだが、僕は仕事が入ってしまっていた。事前に分かっていたことなので、今日一日はクマールに観光案内をお願いしていた。もっともそれはクマールの本職であるから僕が案内するよりも羅王とザッキーニにとってプラスの面も大きいはずだ。
これは「エンペラーの会インド編第2話」からの続きである。
21:00 を回った。第2の男がまもなく到着予定だ。彼は成田からシンガポール経由でムンバイへ向かっている。シンガポールのチャンギ国際空港経由となると片道 15 時間前後の道のりだ。僕も以前この経路で日本との往復をしたことがある。夕方に日本を出て深夜にシンガポールに到着、ムンバイには明け方に着くという便だった。これだけの時間をひたすら移動に費やすというのはなかなか大変であり、まさにこんな感じになる(チャンギ国際空港にて)。
週末、少し足を伸ばしてインドのワイナリーへ行ってきました。その前日に Wasabi にご一緒頂いた友人からのお誘いです。
インド産のワインの存在はこちらに来るまで知らなかったのですが、レストランのメニューで度々目にするので、何度かグラスで飲んだことがあります。失礼な言い方ですが、インドの気候でワインが作れるとは思わなかったので、飲んでみて結構ちゃんと作るなあと思っていました。
今回訪れたワイナリーは Sula Vineyards というところ。それはムンバイから 170km ほど北東にある Nashik という街のすぐ近くにあります。運転手付きのタクシーを貸し切り、朝7時前にムンバイを出発。途中多少の寄り道をしながら現地についたのが11時半ころでした。モンスーンの時期とあって、ムンバイから少し郊外に出ると緑が広がる場所も多く、目の保養になりました。
Sula Vineyards の創業者 Rajeev Samant はスタンフォード大学を卒業し Oracle に務めた後、インドに帰国後。農業を営む実家の土地がワインづくりに適していると気付き、1999年にワイナリーを立ち上げたとのことです。まだ15年前の話ですが、今では日本にも輸出されている程のブランドに成長しています。すごい。
このワイナリーでは1時間おきにツアーを実施しており、ワイン工場の見学と実際にその工場で生産されたワインのテイスティングが可能です。ワイン4杯までのテイスティングが 150ルピー、6杯までのテイスティングが 250ルピーと2つのオプションがありましたが、もちろん6杯で参加です笑(といってもテイスティングなのでグラスの底に軽く注がれる程度です)。
ワインのテイスティングなるものに参加したのは実は今回が初めてですが、複数のワインを飲ませてもらうと確かに色々な違いの発見があって面白いですね。日本に帰ったらもう少し勉強してみたくなりました(いつもワインを頼むときは品種もブランドも分からずおまかせで済ましてしまっていたので・・・)。
夕方に現地を出発。ムンバイに戻ったのが夜の8時頃です。社会勉強にもなりましたし、良い気分転換にもなりました。お誘い下さった S さん、どうもありがとうございました!
参考リンク: Sula Vineyards
写真 今回の写真はすべて Fujifilm X-T1 にて撮影。レンズは FUJINON XF23mm と XF35mm です。現在ドイツでは Photokina 2014 が開催中。どんなカメラが登場するのか、楽しみですね。
ここ一週間ほどの間、ムンバイはなかなか騒々しい毎日でした。
先々週の土曜日から本日月曜日までの10日間、インドはガネーシャ・チャテュルティ (Ganesha Chaturthi) と呼ばれるガネーシャを祭り上げる祭典の中にありました。中でもムンバイはそれを盛大にやる都市であると聞きました。
僕もこの祭りのことはよく知らないのですが、この期間中、人々はガネーシャを持ち寄ってムンバイの海岸 (Chowpatty) に投げ込むということと、夜はダンスミュージックを大音響でかけながら街を練り歩くということは学びました。
ガネーシャといえば、象の顔をした有名なヒンズー教の神様ですが、ヒンズー教の最高神の一人であるシヴァとその妻パルバティーの子供として生まれました。父の顔を知らないガネーシャはパルバティーの頼みで家の見張りをしていたのですが、そこへシヴァが帰宅。父シヴァは家に入れまいとするガネーシャに怒り心頭し、首を切り落として遠くへ投げ捨ててしまいます。その後、それが自分の息子だとパルバティーから聞いたシヴァは首を探すのですが見つからず、代わりに象の首をガネーシャに据え付けました。そして、そのまま現在に至る、です。
すごい話です。
そのガネーシャですが、インドではすっかり人気者で、日本でいうところの招き猫のような商売繁盛の神様として崇められています。家々にはガネーシャが祀られ、タクシーに乗ればガネーシャのミニチュアがダッシュボードの上に置かれ、観光地に行けばガネーシャの置物が大量に売られています。シヴァよりも人気があるのは間違いありません。
どうやら今回のガネーシャ・チャテュルティは、そんなガネーシャを祀るお祭りのようなのです。
これは異文化体験としては非常に興味深いものなのですが、困ったことに、連日かなりの盛り上がりを見せてしまっていたのです。踊り好きのインド人。様々なガネーシャを載せたトラックと共に、道路に大音響のトランス・ミュージックをかけ、またバクチを鳴らしながら、夜の10時あるいは11時くらいまで外で踊りまくっていました。なかなかの近所迷惑です笑。それでも、まあインドだしね、の一言で全てが納得できてしまうのですが。
ようやく今晩でガネーシャ・チャテュルティも最終日を迎え、また明日から静かな夜が迎えられそうだとほっと一安心です。
モディ首相の来日に合わせ、連日、日印関係の強化に関する話題でニュースが盛り上がっています。その中で9月3日の日経朝刊に「インドでモノづくりを」という記事が掲載されていました。以下、同記事からの引用です。
モディ氏は約2000人の聴衆を前に「インドには低コストで質の高い労働力がある」と指摘、「メーク・イン・インディア(インドでものづくりを)」という政権が掲げるキーワードを繰り返した。特に中堅・中小企業の進出に期待を寄せ、「日本の中小企業は、インドの大企業と同程度の力を持っている」と述べた。
これを受けて、インドにおける日本流の「モノづくり」とは果たして可能なのだろうかと考えてみました。以下、あくまでも個人的な感覚や経験に基づく主観ですので、ご留意を。
そもそも日本流の「モノづくり」とは何なのでしょうか。
これに関しては既に多くの考察がなされているので、素人に近い僕が見解を述べられる立場ではないのですが、それを可能たらしめている重要な要素の一つとして、製造現場に蓄積された高度なスキルやノウハウが挙げられると思います。なかでも形式知化が困難な、現場に暗黙知として蓄積されたスキルやノウハウが非常に重要な役割を担っているのだと認識しています。
もちろん他にも、日本のモノづくりたらしめる要素は存在するはずですが、ここでは話を簡単にするために、そうした暗黙知的なスキルやノウハウの存在が日本のモノづくりの要件の一つであるとして、それに絞って話を進めたいと思います。
さて、こうした暗黙知的なスキルやノウハウは、その定義により、属人的な性質を持つはずです。属人的で暗黙知である以上、現場で働く方々が、中長期的な時間軸で習得し、また継承していくものだと思います。言い方を変えれば、その現場で働く方々が、中長期的な時間軸で、その現場に留まり続けることが前提条件になっているとも言えます。
ここで、インドにおける日本流のモノづくりについて考えてみると、その最大の課題は、雇用したインド人に中長期的な時間軸で現場に留まってもらい、暗黙知的なスキルやノウハウを十分に吸収し活用してもらうこと、ではないかと思っています。
私は他の新興国の事例を知らないのですが、ことインドの中間層においては離職率がどうやらとても高いのです。あくまでも僕の感覚によるものですが、ちゃんとデータを調べても、やはり高いのではと推測します。
例えば今インドで僕が住んでいるアパートは、常時交代で、受付にスタッフが在席しているのですが、このスタッフの皆さんの顔ぶれが毎月入れ替わるのです。おそらく全員で5から6名程度のスタッフが勤務しているはずですが、その顔ぶれがどんどん入れ替わる。本当にコロコロと仕事を変えてしまうのです。顔見知りになったなと思ったら、いつの間にかいなくなってまた新しいスタッフが常駐している。日本のアルバイトのスタッフの方がまだ長くいるんじゃないかと思うくらいの入れ替わり方です。
こうした事例はこちらに住んでいる他の日本人からもよく聞きますので、おそらくインド人の中間労働者層の就業観として、全般的にそうなのではと推測します(もちろん一定層以上のビジネスパーソンになるとまた話は別です)。つまり、少しでも今よりも条件が良い仕事が見つかればすぐに移ってしまう、あるいは今の仕事に少しでも不満があれば辞めてしまう、そんな印象を受けています。そしてこれはインドの製造現場でも同じような状況ではないかと想像します。
従って、日本企業が日本流のモノづくりをインドに移管しようとした時、大きな壁となってくるのがこの離職率の高さではないだろうかと思っています。せっかくスキルやノウハウを教育しても、それが身につく前に仕事を辞めてしまうリスクが非常に高いのではと思うのです。当然、それを防ぐために、他企業よりも給与面や待遇面を手厚くすることで、ある程度の離職は避けられると思います。しかし、良くも悪くも個人主義の強いインドの方々を見ているとそう話は単純ではないだろうなと、あくまで直感的にですが、感じています。
ただし、これまでも日本企業は中国や東南アジアに、日本流のモノづくりのあり方を広めてきた実績はあるわけですから、うまいやり方はあるのかもしれません。それらについては僕は具体的なストーリーを知っているわけではないのでコメントできませんが、これまでの他国への製造移管のノウハウを結集すれば、インドへの移管もできるのかもしれません。
そしてもちろんのことながら、これだけ文化が違うので、こうしたハードルが存在するのは当たり前のこと。その前提で、インドにおける製造の意味やあり方について吟味し、試行錯誤しながら、手探りでインドにおける日本のモノづくりを進めていけば良いのだと思います。
インドで製造するということは、コスト競争力やインド市場の獲得以上の意味が存在すると思います。具体的には、中東やアフリカといった更に西側の市場へのアクセスです。ムンバイに住んで実感していますが、こうした西側への拡がりが具体的にイメージできるのがインド(特にムンバイなどの西側の都市)なのです。そうした中長期的な視野で、インドをどう活用するのか、という部分が今後の面白いところかなと思います。
せっかくドバイに来たので定番中の定番ですが、世界一高い高層ビルである、ブルジュ・ハリファ (Burj Khalifa) にも登りました。全高 828m とのことです。市内を巡っていてもこの建物の存在感は圧倒的で、まさにドバイのランドマークですね。登ったからといって夜景以外に特に何があるわけでもありませんが、かといって登らずにドバイを去ってはいけないような場所ですね。
2010年の開業からすでに4年以上経過していますが今も非常に人気は高く、事前のチケット予約は必須です。僕は数日前に訪問を決めたため、すでに夕刻日没の時間帯のチケットは売り切れでした。そこで少し遅い午後7:30のチケットを購入。予約時間前に現地のカウンターにて実際のチケットを受け取り、20分程度並んで展望台 (At The Top) まで辿り着くことができました。
800m を越える高さからの景色はというと、もちろん素晴らしい眺めでしたが、個人的には東京のほうが好きかなと思います。当たり前ですが、夜景の良さはその建物自身の高さだけでなく、その周辺に広がる建造物の姿形に大きく依存するので、高層ビルが遠方まで広がる東京近辺の夜景はなかなかのものだと思います。
ところで中東と言うとオイルマネーの印象が強いのですが、ドバイのオイル産出量は限られているのだそうです。
アラブ首長国連邦としては豊富な石油資源によって経済が支えられているものの、その資源のほとんどがアブダビに集中しており、ドバイはアブダビの10分の1程度の産出量なのだそうです(引用: ドバイ旅行館)。そして、ドバイの GDP に占める石油関連の収入は 4% 程度との情報もあります(引用: R25)。従ってドバイとしては、観光や金融サービスを主たる収入源とすべく、国を発展させてきたとのこと。
今回旅をしてみて、きっとそれはうまく成功したのだろうなと感じました。観光客にとっては非常に快適な場所が揃っています。その戦略的な国家の発展のあり方はシンガポールにも通じるところがあり、一つのモデルとして素晴らしいなと思います。
しかし一方で、これはあくまでも個人的な感想ですが、どうしても気になってしまうことがありました。
一つは、こうした観光地としての発展を目指そうとすると、街の姿がどこに行っても同じように感じてしまうこと。モダンなデザインの高層ビルを立てて、世界中のブランドショップを並べた姿を見ていると、わざわざこの国に来る意味はあるのかなと思ってしまいます。そして、もう一つが、多くの観光ビジネスが外国人労働者に依存していること。ドバイの市場に行っても、それを売っているのは近隣の国からの外国人ばかりなのです。京都の着物屋に行っても、そこには日本人がいない様なもので、モノは売れてもコトが売れていない感じがしました。
当然、自国の限られた資源や人口と、周辺国との経済関係を考慮すれば、こうしたビジネスに帰着するのは合理的ですし、僕もその判断をする立場であればそう判断すると思いますが、一人の観光客としては、なんとなく寂しさを感じるところです。
日本も観光立国としての発展を目指しているところですが、日本ならではの要素をきちんと残しながらも、グローバル視点で魅力ある観光地として発展させていくというところのバランス感覚やその舵取りが極めて重要ですよね。
最終日はホテルでゆっくりした後インドに戻りましたので、ドバイ関連の記事は一旦こちらで終了です。その他の写真は Behind the Phoword を是非ご覧ください。
関連記事:ドバイ #1 | ドバイ #2
ご参考: ブルジュ・ハリファの展望台 At the Top のチケット予約
http://www.burjkhalifa.ae/en/ObservationDeck/TicketInformation.aspx
ドバイ2日目は、ドバイ市街地へ。昨日のデザートサファリでニュージランドから観光に来ているグループとご一緒したのですが、市内観光は “Big Bus Tours” を利用すると良いよと教えてもらいました。有益な現地情報を頂き感謝です。これは $66 (2014年8月現在) のチケットを買えば、終日市内を走る観光バスに乗り降りしながら各スポットを回ることができるというもの。タクシー移動も比較的安価にできるドバイなので、$66 はやや割高な印象ですが、こちらは2階建てバスで見晴らしも良さそうですし、おまけで博物館などのチケットも付いてくるので利用してみることにしました。
ドバイの市内観光は大きく2つに分けることができそうです。一つは旧市街と言いますか、昔ながらの市場を中心としたエリアを回るものと、もう一つは近年急速に発達したモダンな建築物を回るものです。Big Bus Tours はそれぞれのエリアに合わせ2つのルート設計になっており相互を自由に行き来可能です。
アラビア語で市場はスーク (Souk) と呼ばれます。ドバイには3つの有名な Souk があり、それぞれ Textile Souk (繊維品市場)、Spice Souk (スパイス市場)、Gold Souk (貴金属市場) と呼ばれています。いずれも近接しており互いにアクセスしやすい場所に存在しています。冒頭の写真は Spice Souk にて。スパイスといっても、インドのマサラとはまた違った感じですね。色もやや落ち着きがあります笑。
Textile Souk から Spice Souk または Gold Souk へ移動するには入江 (Creek) を渡る必要がありますが、このために Abra と呼ばれる小型の船が運行しています。これに乗るのもまた観光では定番のようでした。一人 1 AED (約30円) です。
ドバイはどこに行っても外国人労働者ばかりです。人口の 90% が外国人というデータもあります。
例えば、昨日のサファリツアーのドライバーはスリランカ出身、ホテルから市内まで送ってくれたドライバーはインドのケララ州出身、そして Textile Souk での買い物で対応してくれた売り手はパキスタン出身でした。ドバイの労働環境は過酷と聞きますが、それでも母国で働くよりは収入が良いので、皆家族を母国に置いてドバイで単身で働いているのでした。収入が良いといっても、そう簡単に帰国できるわけではないでしょうから、長期単身赴任です。インドのケララ出身のドライバーは1年から1.5年ごとに帰国しているとのこと。その覚悟たるやすごいなと思いました。
ところで、Textile Souk のパキスタン人とは最初英語で話していたのですが、途中で彼の仲間が輪に入って、彼らだけで母国語で話す場面がありました。なんだかヒンディーに近い響きだなと思ってインド出身かと思っていたのですが、念のため “Are you from India?” とは聞かず、”Where are you from?” と聞いてみたらパキスタンとのこと。インドとパキスタンはややこしい関係なので、インドと決めつけて質問せずに良かったと思った瞬間です笑。何しろ買い物の談笑ついでにお茶をご馳走になっていたので。
僕だって海外では頻繁に中国人や韓国人と間違われますが、最初からそう決めつけられるとやっぱり複雑な気持ちですからね。個人的に中国や韓国にネガティブな感情はありませんけれど、自分は日本人だっていつも思ってますから、大げさに言えば、自分のアイディンティティを毀損されたような気がするんでしょうね。比較的中立な僕ですらそう感じるので、パキスタン出身者にインド人かって聞いてしまったら、その場で怒り出すこともありそうです。
ドバイはアフリカ、欧州、アジアからのアクセスが良いので、本当に様々な国の人の姿を見かけました。日本やインドでも欧州、アジアからの観光客はよく見かけますが、ドバイは更にそこへアフリカからの観光客が加わり、非常に多層的な印象的でした。
そういう場所だからこそ、political correctness と言えばいいのでしょうか、国や文化の違いを意識しながらのコミュニケーションが大切になってきますよね。こちらに他意はなくとも、思わぬ一言が落とし穴になることもありそうです。こういった人種のるつぼ的な場所では、そういう部分への気配りも大切だなと、今回旅をしていて思った次第です。
インドの自宅に来てくれているメイドさんとの雑談の中で、エボラ出血熱が話題に登りました。
彼女曰く、プネ (Pune) でエボラウイルスに感染した患者が出たとのこと。プネはムンバイから車で3時間ほどの街で、最近、大企業の進出も進む発展著しい街。
僕はそこまでエボラに関してのニュースを追いかけていなかったのですが、そんな話は知らなかったのでちょっと驚き、ネットで検索してみました。実際、8月13日付のこちらニュースを読むと、プネでエボラウイルス感染の疑いのある患者がいたことは事実のようです。ただ、最終的な血液検査では陰性だったと書かれてあります。
Ebola scare may force doctors to leave Naidu (Pune Mirror) またつい昨日のニュースでは、デリー国際空港にて6名の乗客がエボラウイルス感染の疑いで隔離されています。また、同ニュースでは、その間にリベリア、ナイジェリアから85名のインド人がムンバイ国際空港に到着。特に検査では異常なしだったとのこと。
6 passengers isolated at Delhi airport over Ebola fears, 85 Indians clear screening test at Mumbai airport (The Times of India) Ebola scare: Six passengers isolated at Delhi airport; no suspected cases in Mumbai (The Indian Express) 次の記事では、インドにおけるリスクとして、現在エボラ出血熱の患者が多発している地域で働くインド人からの感染を挙げています。同記事によれば、エボラウイルスの発生している地域では約45,000人のインド人が住み、特にナイジェリアでは40,000人相当のインド人が在住と書かれています。
Why is India an easy target for Ebola (Yahoo! News) こうして日々、エボラウイルスのインド国内侵入が瀬戸際で食い止められているんですね。
僕が最初にエボラウイルスを知ったのは、学生の頃に読んだリチャード・プレストン著の『ホット・ゾーン』を読んだ時になります。それを読んだのが学生のいつの時点だったか忘れてしまいましたが、同書の発行が1994年なので、今から15年から20年くらい前になるんでしょうか。
当時これを読んで、世の中にはなんと恐ろしいウイルスがあるものだろうかと一人戦々恐々としていたのですが、その後は特にその名を聞くことはなく、エボラウイルスのアウトブレイクというものは幻だったのかと思っていました。それが今年に入ってかなりのインパクトを世界に与える事態に発展し驚いています。
今回のエボラウイルスに限らず、近年では SARS の様に、これまでもある時期に爆発的にウイルスが広まり人類を脅威に与えるということは度々起こっています。一方で、実際には自分たちの体は日々多くの病原菌やウイルスに触れながらも、体の免疫系に守られ全く影響を受けることなく過ごしている。その微妙なバランスに、生命の複雑さを感じますね。
ちょっと堅い話が多いこちらのブログですが、たまには写真と雑談を中心に。
仕事が忙しかった7月、8月ですが、週末の買い物やご飯の時はカメラを持ち歩いているので、少し雨のムンバイの街を撮ることができました(すでに過去の記事で使った写真も混ざっています)。
ムンバイに来た当初、夏のモンスーンの時期は大変なことになるよ、と色々な人から聞いていました。あちこちで道路は冠水して、膝くらいの高さまで水が溜まるよ。その溜まった水で子供たちが泳ぐよ。なんて話も聞いたので、どれくらい大変なことになるのか、興味と恐怖とが半分半分の気持ちでいました。
モンスーンは毎日が雨だと聞いていたのですが、実際に迎えてみると、ひたすら雨が振り続けるというよりは、一日に何度も夕立のような激しい雨が突発的に降るという表現の方が正しいように思います。そして、心配したほどに雨による日常生活への影響は少なく、このまま平和に秋以降の乾季の季節を迎えられそうな気がしています。
昨年もムンバイで過ごしていた日本人の方によれば、どうやら今年は平年より雨が少ないようです。ただ、こちらの地方ではモンスーンの時期に大量に降った雨を貯蓄しておいて、乾季の水不足を補うので、今年雨が少なかったということは必ずしも良いニュースとは限りません。
今週に入って、雨の頻度が減ってきたように感じます。雨が降っていない時はいつもどんよりとした曇り空でしたが、今日は朝から晴れ間も見えています。もう間もなく9月ですし、そろそろモンスーンも終盤なのかなと感じます。
9月から11月という季節は、日本では自然が見せる表情の変化がとても素晴らしい時期ですが、こちらムンバイでは淡々と、雨季から乾季へと変わっていきます。
写真はいずれもフジフイルム X-T1 に XF35mm F1.4R もしくは XF23mm F1.4R をつけて。カメラ出力の JPEG に対し、少しだけ Lightroom で調整しています。
最近、白黒で撮ることが多くなりました。一つはこのカメラだと白黒が綺麗に撮れるということもありますが、もう一つは、インドの街は色が多すぎて(しかもゴミもたくさん落ちているので笑)カラーだと落ち着きが無いということもまた理由です。
これまで何度か書いてきていますが、僕の生活圏では日本人は僕一人です。勤務先のオフィスはもちろん、仕事でお会いするお客さんもほぼインド人で、たまに欧米からの出張者がいらっしゃる程度。私生活でも、月に一回程度の日本人会の若手の皆さんとの交流会を除けば、インド人社会の中で毎日を過ごしています。
こうした環境で過ごしていると、自分は日本を代表している、という意識が自然と強くなります。もちろん日本代表と言っても、オリンピック選手やワールドカップ選手のそれと比べれば全然ちっぽけなものですが、それでも、僕が仕事や私生活で普段接する多くのインド人にとっては「僕イコール日本人なんだ」と意識させられるのです。彼らにとっては、僕の振る舞いは、僕という個人の振る舞いであると同時に、日本人の振る舞いでもあるんです。
例えば、仕事のプロジェクトで一緒になったメンバーと雑談をすると、よく「日本の XX はどうなんだ」「こういう時、日本人はどう考えるんだ」という質問を受けます。あるいは、僕の振る舞いを見て「日本人は丁寧だな」といった感想を持たれたり、「日本人はきっちり仕事をするから、お前もちゃんとこの仕事をしてくれると思う」といった期待を持たれたりするのです。
彼らは、僕という個人を見て、その延長線上に日本人を見ている。そう強く意識させられます。
今日までインドで生活していて、インド人が持っている日本そして日本人の印象は総じて大変良いものであると感じています。
ほとんどのインド人は日本に行ったことはありませんし、直接日本人と接する機会もほとんどありません。したがって、メディアの情報を通じて受ける印象がベースになっているのだと思いますが、日本や日本人に対して、ある種の尊敬の念といったものを抱いてもらっていると感じます。全てではないにしろ、日本の文化、精神、技術、サービスといった様々な日本の資産を評価してもらっていると感じます。
僕という個人を通じて日本が見られているのだとすれば、こうした日本のブランドや品位を損なうことがあってはならないと思っています。自分が至らないことも少なくありませんが、少なくとも意識の上では、その責任を果たせるように考え、発言し、行動しなくてはいけないと思っています。
僕の仕事のやり方、人との接し方、日本という国に対する視座のあり方から、街中でのちょっとした振る舞い方やゴミの捨て方まで、そういった言動の端々に、日本人としての意識や健全な誇りを持ちたいと思っています。
背番号はなくとも僕は日本代表なんだ、そう思いたいのです。
インドに来て以来、グローバル人材とは、という問いについて度々考えることがあります。その一つの答えとして、母国の国旗を背負えること、というのはあり得るのかなと思っています。
もちろん語学力を含めたスキル的な部分や、特定分野における専門性といった実践的な要素は当然重要だと思います。それでも、非常に曖昧ですが、自分の国の国旗を背負って他国の人間と付き合える意識とそれ相応の言動が取れることって、より本質的に大切な要素はないかなと思うんです。
そう考えると、僕はまだまだ未熟者ですが、地道に頑張っていきます。